夏にある一番大きな大会といえば、やはりインターハイだろう。
正式名称、全国高等学校総合体育大会陸上競技大会。
……長い。
まぁ、そんなことは置いといて。
要するに、このインターハイで、私が進学できるかが決まることになっているのだ。
自分で言うのもなんだが、私は足が速い。県下では常に何かしらの大会で入賞していた。私が副部長なんてやってるのも、この成績によるものが大きい。
そのおかげで、スカウトの話もちらほら来ていたりして。
で、インターハイで結果を残したら、特待生として迎えてくれるところが出てきたのだ。
色々あって、授業料が免除になる推薦入学でしか大学に入れない私には、頑張らなければならない……はずなのだが。
「別に夜更かしだったり、低血圧だったりするわけじゃないんだから、朝ぐらい一人で起きれるようになりなさいよ」
雅の言うことは、いちいちもっともである。
そりゃ、私だって目覚ましを変えてみたり、早く寝るようにしたり、起きやすいように敢えて寝にくい体勢で寝てみたりと努力はしているのだが、一向に実る様子がない。
「だから、私には雅が必要なわけよ」
「あんたはねぇ……」
「溜息ばっかりつくと、幸せが逃げるわよ」
いや、謝るんで、世界史でやられた場所を狙うのはやめて下さい。
私の抵抗も空しく、キレのいいチョップが見事に脳天に突き刺さったのであった。
私が通うこの学校は、この辺りでは一つしかない共学校なので、生徒数はそれなりに多い。
また、唯一の普通科の学校であることも、生徒を集める一因になっているのだろう。他にあるのが農業、工業校ばかりでは、まぁ当然だと言える。
それ故、この学校への進学の理由が「なんとなく近いから」だったりするのは、わりとありがちだったりするのだ。
「だから、勉強とか頑張らなくてもいいじゃない?」
もっと言えば、授業中の居眠りも見逃してくれていいんじゃない?
「よくもまぁ起きたまま寝言が言えるもんだな。それともまだ寝ぼけてるのか?」
あら先生、そんなに怒ったらいい男が台無しですぜ。
大きく振りぬかれた世界史の教科書が、私の脳天直撃○○サターン。
うぃ、目が覚めたので二発目はご勘弁。
黒板に書かれた三角貿易の図を写し始めたのに満足したのか、先生は授業に戻っていった。
はぁ、貴重な睡眠時間が……。
「余裕ね、結衣」
昼休みになって、雅が弁当を片手に私のもとを訪れた。私も、家から持ってきた菓子パンを取り出す。
雅とは高校に入ってから三年間同じクラスになっている。腐れ縁って凄い。
雅が言っているのは、先程の授業のやりとりのことだろう。
さて、特に特徴のないこの学校は、特徴がないからこそ、進学を希望する生徒の数が多い。
それに比例するように、先生の授業に対する熱も、この頃から高くなってくる。
そして雅も進学を希望する生徒の一人だというわけだ。
「まぁ、私には関係のないことだからねー」
そう、私にとって、普通の受験は関係ない。
「だったら、朝練にもちゃんと来なさいよ」
「そ、それはわかってるんだけど、やっぱり朝は、ねぇ……」
呆れ顔の雅に、曖昧に笑いながら答える。
そんな私を見ながら、更に呆れの色を強くし、深い溜息をつきながら、一言。
「夏で、全部決まっちゃうんでしょ?」
どうでもいいけど、箸で人を指すのは大変お行儀悪いと思います。
私が柔軟を終えると、ちょうど他の部員達がランニングから戻ってきた。
「あ、広瀬先輩、おはようございます!」
元気よく挨拶をしてくれる後輩ちゃんに、こちらもおはよーと挨拶を返す。うんうん、やっぱり入りたての一年生は初々しくていいね!
だというのに……
「お、おはようございます結衣先輩。今日は早いですね」
「あーあ、予想がはずれちゃったか」
「ふふ、よくぞこの時間に来た!」
二年、三年は挨拶もそこそこに私が来た時間の確認をし、一喜一憂している。
要するに、私がいつ来るのか賭けているのだ。
しかも、時間に間に合うという予想が一番の大穴という不名誉ッぷり。朝練に間に合わない方が人気高いってどういうことよ。
ええ、わかっていますよ。日ごろの行いが全てだってことくらいは。
予想が外れた人は部室の貯金箱に100円を奉納し、集まったお金は遠征のバス代やドリンク、備品の購入に充てられる。
ちなみに、私は間に合わなかった場合に支払うことになっている。いくら奉納したんだろう……考えたくもない。
「ん、全員戻ってきたわね?じゃあいつもの筋トレやって、終わった人から解散!」
みんなの息が整ったのを見計らい、雅が号令を下す。
その号令に従い、みんなが一斉に腕立てを始める。もちろん私もだ。
朝の清涼な空気の中、私達のいる一角だけ熱を帯びるている。
荒い呼吸の音だけしか聞こえてこないこの空間は、一種の聖域とも言えるだろう。
「……よし、終わり!」
一番に終わったのは私だった。まぁいつものことである。ランニングに行ってないから体力余ってるし。
「ふぅ、おしまい」
次に終わったのは雅。さすが部長。
大体いつも、私が一番、雅が二番に終わり、そこから後は大体学年順に終わっていく。私も雅も短距離だからね、筋力がないとお話にならないのさ。
まだ筋トレをしている子達に軽く声をかけ、部室に戻って着替えを始める。
これで、学校にシャワールームでもあったら完璧なんだけどねぇ……。
公立校にそんなのを求めるのは酷なんだけど、だんだんと暖かくなってくると、どうしても汗が気になるのだ。
タオルと制汗スプレーで極力臭わないように気を配るのも、中々大変なのですよ。
「雅、支度できた?」
「ええ、じゃあ行きましょうか」
さて、今日も一日頑張りますか。
「だから、あんたはもうちょっと副部長ってものの責任を……」
雅の毎度の説教を聞き流しながら、自転車を駐輪場まで押していく。
甚だ面倒くさいのだが、学校内での運転は危ないという雅様のありがたいご注進により乗っていくのは却下。
じゃあ門を閉めるのは危なくないのかと小一時間ほど問い詰めたくなったが、私が雅に口で買った試しはないので素直に従うしかない。
というか、あんたも練習に行きなさいよ。
自転車を停め、そのまま部室へ。
荷物を置いて、すぐにアップを始める。
朝練がある日は基本的にジャージで登校するため、着替える必要はないのだ。決して、制服からジャージに着替える時間がなかったり、そもそも制服を着る方が時間がかかったりするからではない。
私が柔軟をやってる横から、ヒュンヒュンと風を切る音がする。
「雅、危ないからもうちょっと遠くでやってくれない?というか、砂利が飛んできて地味に痛い」
「気にしなくていいわよ」
それはあんたが言うセリフじゃないだろ。
既にアップの終わっている雅は、私から30㎝と離れていない距離で縄跳びをしている。
縄が地面に当たるたび、こう、砂がピシピシと飛んでくるのだ。
しかも、柔軟のために地べたに座り込んでいたりするもんだから、顔なんかにも容赦なく当たる。
結局、柔軟が終わるまで、雅は私の横から離れることはなかった。コノヤロウめ。
現在時刻は7時ぴったり。
この時期にもなると、この時間にはすっかり太陽も昇り、二月ほど前では考えられないほど過ごしやすい気候になっている。
それでも、やはり人影はまばらで、いるのは犬を連れて散歩をしている人か、足早に歩いていくサラリーマン、それと、私のような部活のある学生くらいのものだ。
勢いよく自転車を漕ぎ、ひたすらに学校を目指す。人通りも少ないから、スピードを多少出しても安心だ。
部活がない日はゆっくりと電車に乗って登校するのだが、いかんせん朝に弱い私は、春先はこうして必死に自転車を漕ぐことが恒例となっていた。
そもそも、ここが田舎だからいけないのだ。
電車を一本逃すと、次に来るのが30分後。駅から学校まで歩く時間を考えると、場合によっては自転車のほうが速いのだ。だからこそ、今もヒーヒー言いながら進んでいるわけなのだが。
私は自分で言うのもなんだが、結構ゆるい性格だ。
こうして普通に寝坊もするし、宿題なんかもしょっちゅう忘れる。たまに電車も乗り過ごす。
だから、本当は部活ものんびりとやりたいところなのだが、そうはできない理由があるのだ。
学校近くの公園を曲がる。これで、あとは学校まで一直線なのだが……。
「やっぱりいるのね……」
ここから見える校門。そこには、ジャージ姿の女子生徒が一人、仁王立ちで待ち構えていた。
私が女子生徒を確認したのと同時、女子生徒も私を確認したのか、表情がみるみる変わっていく。……言及はすまい。本人の名誉のためにも。
ただ、一言言わせてもらえるなら……絶対に今のあんたには近づきたくない。
自転車を漕ぐ足に力を込める。目的はひとつ。
――捕まる前に通過してやる!
加速した私の意図を正確に察知したのか、それともあらかじめ予測していたのか、女子生徒は校門に走り寄り……
「うそっ!?」
門を閉め始めた。
慌てて急ブレーキをかけ、門への衝突を避ける。
ギャギ、という何ともいえない金属音を立て、自転車はギリギリのところで止まってくれた。ふぅ、危ないところだった。
「おはよう、結衣」
訂正。今も危ないところ真っ最中ナウです。
顔はにこやかなのに、全然笑ってるように見えないのは一体どういったトリックなんですかね?そこまで口の端が吊りあがったら唇裂けるんじゃない?
あぁ、誰か助けて。
「お、おはようございます、雅様」
思いっきり動揺した声で、女子生徒――雅に挨拶を返す。
雅こと片山雅は、我らが陸上部の部長であり……
「副部長ともなると、こんな重役出勤が許されるようになるのね?」
私、広瀬結衣は、陸上部副部長という肩書きを持っていたりするわけだ。